打楽🐷ぶ〜ろぐ

打楽器愛好者、曲淵俊介の身に日々起きる、打楽器に関する小言

YORKSHIRE BALLAD

今日から始まった吹奏楽のリハーサルで使用する譜面を眺めながら、中々に重い仕事量の曲たち(1日3回、全く別の志向のコンサート配信)の中に一曲の小さな作品がある。

 

バーンズのヨークシャー・バラードだ。

 

バーンズが訪れたという、ヨークシャー地方で見た緑溢れる景色をイメージして描かれた、アイルランド民謡風の楽曲だ。

 

恐らく今回演奏する曲目の中では(少なくとも打楽器的には)、一番難易度が低いと思う。

僕のパートはSuspended Cymbalだが、3回しか出てこない。ffまでのロールと、mfまでのロールと、pまでのロール。

 

「あー暇だなあ、退屈だなあ。」

とはならない。何故なら、そこには美しい和声とメロディがあるからだ。

長いフレーズを様々な楽器が歌い継ぐ中、何故か懐かしい気持ちになった。僕はヨークシャー地方を訪れた事は一度もない。でも音楽に乗せて、何故か心の中で自分が生まれ育った町や自然を思い浮かべてしまった。

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先日夕日を撮影した。草木の薫りや肌寒さ、山々の大きさなどが今も脳裏に残る。

 

今年に入り、ウイルスによって殆どの仕事が延期や白紙になったりした(当然大変なのは音楽家だけではないし、皆が油断が出来ない毎日は依然続いている)。音楽家という職業はもちろん、音楽そのものの存在を否定するような意見も多く目にしてしまった。生きるうえでは必要ない、と。

 

僕は自分が生活をする為に音楽をしている。確かにその通りなのだが、その一言で片付けられるほど単純ではない。僕は今まで多くの人生の危機や、傲慢な感情を音楽に助けてもらってきた。だからそんな素晴らしい音を生み出す音楽家たちが、僕にとっては必要だ。人によってはそれは絵画だったかもしれないし、書物だったかもしれない。生命維持という意味では娯楽は必要ないのかもしれないが、案外心の拠り所は、何よりも大切なんじゃないかと思う。

 

人それぞれが良いと思っているものの存在自体を(それがどんなものであっても)、否定する権利は僕にはなくて、僕が出来ることは日々自分の未熟のレベルを一つずつ成熟に上げることだけだ。

 

(アンサンブルって本当に難しい🧐🧐🧐)。

このヨークシャー・バラードで、僕は小さなたった3音の良い薫りを届ける努力をすること。これを何か音楽家としての使命のように感じてしまった、おセンチオジサンがここにいた🧔🧔🧔。